一、生 立
芳賀保治は安政4年正月12日(彼の正確な生年月日は不明、戸籍は7月7日)に、愛知県渥美郡牟呂村(今の豊橋市牟呂町字大西一番地)の5代目清次郎の長男として生れた。
母はたけ、大崎村河合牛兵衛の牛兵衛の娘である。
芳賀家は橋良芳賀の別葉で、代々牟呂大西に住み農を業として来た。
父親は庄屋、寺子屋の師匠等を勤め、村民の尊敬を受け、指導的階級にあった。
彼は身体壮健で資性温厚、膽勇を抱持し、幼いころから既に不撓不屈の気風を持っていたと言われる。
この気風が一生を通じて幾多の艱難(カンナン)を征服し、各種事業に成功できたことの一大原因であろう。
二、略 歴
明治19年3月の28歳の時、牟呂村外2ヶ村役場の書記に任命されたが、これが彼の公共自治に関与した初めである。
以来、村会議員、村長、郡会議員、郡会議長、郡農会長、公共団体の長としては、三村用水理事、牟呂漁業組管理事、三河乾海同業組会長、愛知・三重両県海苔研究会長、渥美郡養蚕組合長、渥美郡仏教長等、その他公職に従事すること50余年の永きに及び、その間教育の向上、民風の改善、村政の整理、産業の発達に貢献努力した功労は誠に偉大なものであった。
三、事 業
(イ) 海 苔 養 殖 事 業
彼の一生を通じて地方に貢献した最大の事業は海苔の養殖である。
海苔事業は嘉永・安政の頃、宝飯郡前芝村の人、杢野甚七(もくの じんしち)が、西浜の海岸で偶然に竹垣に海苔が付着しているのを発見し、採取を始めたのが三河海苔のそもそもの始まりで、以来同地漁村のささやかな副業となって徐々に発達して来たものである。
明治26年春、豊川河口は大津波に襲われ、当時開墾中であった神野新田一帯は、泥海と化してしまった。
この時彼が村内の十間川を舟行の際、枯れたヨシに海苔が小指程付着しているのを発見、六條潟(宝飯郡音羽川川口より豊橋・梅田川の川口間一帯の海岸寄の浅瀬)にも海苔が成育することを知った。
これは杢野甚七が苦心して新たに始め、それを彼が時々拾ひに行き、海苔の竹篊(シビ)に着いたものをよく知ってみたからで、この時の彼の歓喜は大きかった。
彼は直ちに激を飛ばし「牟呂にも海苔が出来る。」と宣伝を大いに努めて、同志を募ったが思う様に行かず、東西を駆け回って28年にやっと大枚5円を村費から支出させ、試験的採取を行い好成績を収めた。
明治29年には有志60余名と共に、豊川河口に大規模の篊の試験設置をした。
これに対して、前芝漁民は漁業の妨害を主張し、猛烈な反対を浴びせ、実に30余餘回の会合を重ねた後、特に牟呂・前芝の八漁業組合を糾合して25萬坪の採取場を設け、大々的仕事に取りかかった。
その結果、海苔の附着が極めて良好であったので、明治30年から村内一般に採集を始めるになった。
次いで海苔は豊川河口の小区域に生産さるに止まらず、六條潟一帯に亘って生育可能であることに着眼し、当時渥美郡費より補助金200円を2回に亘って受け、大崎海岸、杉山海岸等の附近沿岸一帯に試植をし、養殖に限りなき研究と努力とを惜しまなかった。
当時彼と行動を共にした老人の話によれば「自分は当時芳賀氏の下で役場の職員をしていた。
篊の試植に行った当時は、市場に事務所を置き、昼は役場の仕事をし、夜になると芳賀氏以下数名で市場から舟を出し、附近一帯に毎晩の様に試植に出掛けたものである」と。
更に彼は海苔の産地である静岡・東京・広島等を観察、当地の海苔の改良に苦心した。
その様にして宝飯郡、渥美郡、豊橋市の沿岸の適地には海苔養殖のため、所狭きまでに利用拡張されることになった。
また海苔移植は大崎の河合厳が当時岡村金太郎博士の命により、神野新田3号を観察に来たのに始まり、移植試験をした結果、好成績を得た。
明治41年冬には岡村博士指導の下に、三重県桑名郡伊曽島の大島精一の求めにより、15株を送って木曽川尻に移植し極めて好成績をおさめ、更に知多郡亀崎、その他碧海郡、渥美郡福江町等に送る等、急速度に各地に広まり、大正13年には実に7万株の移植を行うまてになった。
一方六條潟一帯の海苔発生は成績最も良好にして、その生産は依然増大し、大正13年度に於て販売価格は年産40余万円を数えるまでになった。
更に昭和十七年度に於ては100万円(3,600万枚)を突破するまでになった。
彼の六條潟海苔に関する研究と改良は、俄然三河乾海苔の商標を掲げて東京・京都・大阪等東西市場に出荷させることになり、遂に 浅草海苔の名声を凌駕する程に迄なったのである。
この海苔養殖事業は後に年牟呂漁業組合の事業に移り、以後引き続き経営され今日に至っている。
(ロ)共 他 主 な る 事 業
明治13年4月に夏目治三郎、加藤七三郎、古溝作右衛門、杉浦治郎三等によって、明治新田開拓事業が起されるや、彼は全てをささげて協力し、水田120余町歩を得た。
また牟呂用水開発に際しては、豊川筋の舟子、筏乗、荷揚 問屋の紛擾と、これに関係する八名郡加茂・金澤・八名井の3村の紛擾とに挺身(テイシン)折衝の任務に当り、寝食を忘れて善処して解決することができた。
次で牟呂用水より分水して、3村の用水を造って農利を図り、また淡水養魚を奨め、渥美郡水産組合副組長に推されて、水産研究所設置に尽力し、大正10年に農林省から水産講習所豊橋養魚試験場を同所に設ケルコトに成功した。
一方六條潟を共用する各漁業組合(伊奈・平井・梅藪・日色野・前芝・津田・清須・吉田方・牟呂)と協力して漁場を整理し、アサリを養殖してその増産を図り、現在10万圓を産するまでになった。
その他組合に各種の基金を積立てその額15,000円、そして育英資金を設け、組合員の子弟で水産教育を受ける者への補助とした。
農方面に関しては、三河赤糸の復興と、伊勢神宮の御衣奉献の復古を企画し、先輩と協力して研さん努め、東三地方糸業の先駆者ともなった。
彼はまた敬神の念があつく、産土神社の改築に際しては委員長として工事に効し、神域の狭いのを思って300余坪の拡張を計り、自らその財源の大部分を負担してこれを達成した。
また常に衛生に努力を集中して隔離病舎を新設し、特に明治19年の伝染病の流行に際しては自ら予防救治に努め、その功績が県知事よりの賞を受けた。
四、栄 誉
大正13年、 自治功労者として本縣の表彰を受けた。
大正14年2月、彼の功労を永久に記念する為、牟呂漁業組合外20団体によって、牟呂大西の
素戔嗚社神域の一隅に丈除(約3m)の銅像が建設された。
昭和2年11月、陸軍大演習の際に、自治功労者として単独拝謁を賜った。
昭和3年11月、御即位大礼に際し、賜僕の光栄に浴した。
昭和4年12月、多年地方産業開発に全力を尽くしたことにより、藍綬褒章を授与された。
五、晩 年
晩年70余歳の高齢で村長を勤め、昭和7年、牟呂吉田村が豊橋市に合併されると、市会議員として活躍、元気旺盛な壮者をしのぐ状況であったが、昭和9年4月15日、78歳にて没した。
墓所は、豊橋市牟呂町大西に在る。
引用元
タイトル 開校廿周年記念東三河産業功労者伝 神野新田に関する記事 377~384頁
著者 豊橋市立商業学校 『芳賀保治』
出版者 豊橋市立商業学校 書籍へのリンク
出版年月日 昭和18(1943年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1705146/213