神野新田と海苔
海苔の養殖は牟呂では、明治29年から本格的に始まったようだが、神野新田は「開拓三十年祝賀会」の祝辞からは、大正10年位から本格的に養殖されたとある

  ・杢野甚七・芳賀保治による海苔の養殖と拡大

 ・三河湾と伊勢湾(愛知県と三重県)で海苔の養殖を始めて行ったのが前芝の杢野甚七であり、海苔を研究して

     三河湾と伊勢湾に広めたのが、牟呂の芳賀保治である。

 ・杢野が、嘉永6年(1853年)の冬、甚七40歳の時、蛤を囲った葦簀に「海苔」の付着気付いた 

 ・杢野が、安政元年8月(1854年)、試しに種類の違う木5束を海に挿したところ、海苔の着生が

  極めて良好であった。

 ・杢野が、安政4年巳年に、前芝の21名と試験養殖を行い、アクシデントがありながら、12月1日から

  海苔を採取し、同月6日乾海苔150枚を領主吉田侯「松平伊豆守信古」に献上した。 

・芳賀は、明治26年1893)に二十間川で海苔を発見

芳賀は、明治28年1895)に試験養殖し成績優秀なことを確認

・芳賀は、明治29年(1895)に豊川河口で本格的に養殖を始めた

・芳賀は、その後も海苔の研究をして三河地方から三河湾と伊勢湾の海苔養殖を拡大させた


  ・長坂理一郎の「昔はなし」の記述

  ― 先代神野翁の料理 

 神野新田が完成して榎本武揚が新田を視察にやってくることになったとき、接待の打合せで先代の神野金之助翁から私は牟呂へ呼ばれました。

 話がすんでから「食事をしていけ」ということでありました。
「さあ一緒に食べよう」と私は上座に据えられ、お膳が出ました。

 そのときの献立はさくら海老の煮つけ、おつゆ、焼麩にのりでした。 (牟呂村産の海苔?)
お膳の外はナスの焼いたのに沢あんでした。
 しかも当主の金之助翁も、従業員も、私もみんな同じ献立で、上下もないのに、なるほど、これは、大へん立派なことであると私はたいへん感心したことがあります。


  ・開拓三十年祝賀式の祝辞より

堤防地先海面ハ開拓以来、年々土砂ヲ打寄セ、千潮時ハ数百間ノ千潟ヲ見ルニ至り、為メニ数年前ヨリ 海苔 生産地ナルコトヲ発見シ、爾来、堤防外ノ海面ハ殆ンド是ガ生産地ノ尤モ適当ナル繁殖地ト化シテ、莫大ナル産額ヲ挙ルニ至リタルハ天与トハ申シナガラ、諸氏ノ熱誠ナル尽力ノ結果ト御同慶二存ジマス。

大正12年4月16日 神富殖産株式会社 社長  富田重助


  ・書籍「神野新田重行」の記述

 神野新田 の副業としては海苔の採取が特記す可きである。

斯業の創始は芳賀保治を推さねばならぬ。

 初め芳賀は新田の毛利より神野に移る頃、一日、小舟に掉して用水路を巡る時偶流れて来た樹枝に海苔の附着したるを見、之が動機となって再來幾多の研究を重ね、新田外なる豊川口の六條潟沿岸に海苔の採取を創めた。

 是れが即ち今日三河海苔の聲價を博するに至った起源である。

抑三河海苔は形状大きく分厚く、品質稍劣等ではあるが、其需要の年々増加する徴ありて隨つて其産額も多さを加へつつある。

 芳賀は此海苔発見と採取と其他に地方産業開發に盡揉したる功を以て、昭和三年十二月藍綬褒章を授與された人で牟呂吉田村長を勤めた事前後11年、又渥美郡町村長会長・同郡農会長にも推されたことがあり、海苔研究会長・三河海苔同業組合副会長等としての功績も亦著しいものがあった。

 蓋し新田の副業たる海苔採取が今日盛に行わるるに至ったのは、此人に負うことの多大であったことを特記して置かねばならないのである。