杢野甚七伝(小林先生編集版)

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 小林が平成8年に前芝小学校に着任した際に、国道23号線バイパス、前芝インターチェンジ、西浜大橋、前芝住宅など、急激に景観が変化していました。

 また、自然の豊かさや、貴重な生き物が生息していました。

海苔の養殖や漁業も、やがては消えていく運命を実感しました。

 アサリなどの佃煮産業は近代化で発展していく様子もうかがい知れました。

学校行事も、子どもたちの活動も・・・・「人・もの・こと」、様々な記録を残して、伝えていかなければ……、   そう思える環境でした。

 

 当時の貴重なビデオ等は前芝小学校放送室にライブラリーとして寄贈しましたが、平成20年にVHS機器の国内生産が終了して、使用されないまま令和時代を迎えました。

 このたび教育会館ビデオライブラリー担当と相談のうえ、小林の所蔵する貴重なビデオを教育会館と豊橋市中央図書館に媒体変換・アーカイブ寄贈することになりました。

 豊橋・蒲郡・田原の物流の拠点・三河港。自動車産業を中心とした「ものづくり」を支える国際貿易港です。

元々は、東南アジア等から木材を輸入するために開設された豊橋木材港がルーツで、今回アーカイブ寄贈のビデオで記録されています。

 木材輸入から自動車の輸出・輸入、あるいは石油製品、金属資源など国内最大規模の積み出し港に発展する過程で、超大型船舶の航行や接岸に対応することが求められるようになった。

 それに伴って、浚渫工事や工三河湾の埋め立てが始まって、周辺の市町村の生活も変化し、自然環境も昔日の面影を残さないところも出てきた。

 生活の変化のなかで、伝統的な漁業や水産業も姿を消そうとしていた。

 

    郷土前芝に誇りうる人は数々いる。

そうした人の一人「杢野甚七翁」の業績をまとめた記録が、前芝小学校校長室に所蔵されていた。

 前芝の海苔養殖の創始者である「杢野甚七翁」は前芝の偉人として、後世に語りついでいくべき重要な郷土史の一つである。

 「杢野甚七翁伝」という文書が完成したのは、備品ラベルに書かれていた年数から、昭和12年か11年であろうと推定される。

 しかし、「後書き」がない手作り冊子ため、いつ編集されたかは、はっきりしない。

平成4年2月に、当時の前芝小学校 加藤清次校長先生が、NECワープロ文豪で復刻入力してくださったもので、フロッピーが添えてありました。

 加藤氏は、退職後、小坂井町公民館フロイデンホールに勤務されておられ、「三河海苔創業者 杢野甚七翁伝」の古めかしい文書は、口文語ではない、

 また記載されている語句も現代と違うため、漢字及び仮名遣い等は現在のものにした。

さらに、表現等についても、現代風に直したところもあるとのこと。

 「加藤禮吉編 杢野甚七翁伝」を復刻し、地域教材として学習に使ってもらえるよう、タイピングされたそうです。

 

 ※語句の現代語訳①金子(きんす):お金のこと  ②紛擾(ふんじょう):もめごと

 

 三河海苔創業者  杢野甚七翁伝 加藤清次氏が「NECワープロ文豪」で備品の古書を入力 した文章を、現代の文言に加筆した。


1.はじめに

  豊橋駅の西北約1里、豊川河口の前芝海岸そばの前芝灯明台の傍らに清楚な記念碑がある。

これは三河海苔創業者杢野甚七翁の記念碑である。

 三河海苔は、今や尾張・伊勢の海苔とともに東京湾の浅草海苔に次ぐ声価を有する。

この三河海苔養殖の起源は1854年、安政元年、13代将軍徳川家定の時に、三河国宝飯郡前芝村の人、杢野甚七翁が創始した。

    

2.海苔養殖の歴史 

 海中にモヤをたて、海苔を人工的に養殖するようになってから、未だ三百年にもならないが、全国ほとんど、至るところの海岸に天然に自生する海苔を採取して食用にしていたことは太古から既に我等の先祖は知っていたのである。

 今から千年前に編纂された延喜式には、紫菜(アマノリ)を諸国から貢物にしたことが載せられ、又東鑑には伊豆国から頼朝に甘海苔を献上した記事がある。

  しかし、これらは何れも天然自生のものを採集し、その製法なども極めて素朴な方法であった。

現在のように海苔を四角な形に製造するようになったのは、徳川時代の初期・元和寛永の頃(約370年前)からであった。

 モヤを建て海苔を養殖することは延宝・天和の頃(約320年前)東京湾の品川・大森の漁師が全国にさきがけて始めたと言われる。

 従って、品川・大森は全国で最古の海苔養殖場の誇りを有するわけで、これに次いで広島が古く宝暦年間(約240年前)に開始している。

 海苔の養殖製造販売事業は、このように東京湾を発祥地として徳川時代の中期以後、しだいに全国各地に広がっていった。

 我らは、海苔養殖事業が全国各地に伝わっていったことに際し、各地の先覚者が初めには、各地域で嘲笑を浴びながら莫大な犠牲と苦心を払い、新しい産業をその土地に移入・育成した苦労を思わずにはいられない。

  今、各地に数ある先覚者のうち、数例を挙げてみる。

天明4年(1784年)には、上総国 君津郡の近江屋甚兵衛が大森品川に学びモヤ建ての方法をその土地に普及させた。

 同じく文政4年(1821年)には、遠江国 舞坂の、那須田又七が創始していった。

また安政年間には、陸前国 気仙沼湾の猪狩新兵衛が開始していった。

 安政4年(1857年)には、尾張国鍋田村の竹川伊藏が郷里において養殖に着手している。

杢野甚七翁もまた三河湾における先覚者の一人としてこれら各地の先覚者と共に肩を並べているのである。

 もっとも、甚七翁に先だつこと二十余年前(天保5年また3年とも言われている)には、田原藩の家老渡辺崋山が、既に海苔養殖事業に着眼していた。

 大森で海苔の養殖製造方法を詳細に調査し、田原藩に帰国されたが、実際に事業に着手することが無かったのは遺憾である。

 これは、崋山先生が、政治家・農政家としてもまた時流を見ぬいた卓見の持ち主であったことを物語っている。

 

3・創 業

  杢野甚七翁は、文化11年3月15日(1828年)に百姓銀右衛門を父として三河国宝飯郡前芝村で誕生した。

 父の死後、しばらく銀右衛門と称していたが甚七というのが本当の名である。

宗旨は禅宗に属し、幼少のころ前芝村の蛤珠庵の寺子屋で学んだ。

 翁(以下甚七翁を翁と略称する)が、海苔養殖に着眼したのは、嘉永6年(1853年)の冬、翁が40歳の時、蛤を囲うために張り巡らした葦簀に「海苔が付着しているのに気付いてから」と伝えられている。

 翁の生地 前芝港は、徳川時代には東三河の重要な門戸として、江戸通い・伊勢通いの 大船は、湊に停泊し河岸には問屋、宿屋が軒を並べ諸国の旅客商人の往来でにぎわっていた。

 更に、前芝は、豊川河口に位置し海苔養殖の最適条件を備えている。

こうした地理的位置にある前芝において、先ず海苔事業の発祥した事は偶然ではない。

 翁も恐らく商人等から浅草海苔を養殖しうることや、それを販売すると収益が多いこと等を既に聞いており、ハマグリを囲う葦簀(アシミノ)に海苔が付着しているのを見つけて、海苔を育てることに自信を得て、海苔業に精根をこめるに到ったのではないかと思う。                                 

 翌安政元年8月(1854年)翁は、試しに椎・樫・栗・栃の木5束を海に挿したところ、海苔の着生が極めて良好であった。三河湾における最初のモヤ建である。

 杢野甚七翁自身の手記を基にしてなった「海苔発企帳」(杢野重三郎氏蔵)によれば海苔創業当時の事情を次のように述べられている。(原文を現代用語に変えた)

 『嘉永6年丑の十二月、海苔について関心があり、海苔が付着している場所に度々行った。松の枝・竹・藤などの流木に付着していた。

 浅草海苔・舞坂海苔・広島海苔が、金子多分に上る事(高い収入になること)を心得て、安政元年8月、「しい・かし・くり・とちの木の5束」を海中に刺した。

 海苔はよく付着し、銀右衛門は一人、是より舞坂へ行き、浜松屋の宿へ泊まり、そこで聞きまわった。

 ほかの地域でも海苔を買い、簀も買い、海苔のことを、いろいろと聞いてまわった。

6月の土用の秋頃二十日過ぎから、秋の彼岸過ぎに。「しいの木・かしの木」を差す。

簾(す)は葦(よし)のことであり、秋の彼岸前に刈り取り、よく干して、簀(す)に編むことを承知致し、自宅に帰っていった。(※銀右衛門とは甚七のことである)

 杢野甚七翁が、模範とした遠州舞坂の海苔は、この時より 34年前の文政4年、翁がまだ八歳の時、舞坂の庄屋・那須田又七に学んだ。

 信州諏訪郡荒井村の海苔商人である「森田屋彦之丞」に勧められ江戸に行き海苔の製造方法を学び、帰郷後開発したものである。

 翁は、この海苔の先進地である舞坂へ赴き、海苔の養殖製造販売方法を調査した。

最初は、商人風に姿を変えて赴いたというこである。

 翁が、豊川稲荷に祈願をこめて、海苔開発のため「大願が叶うならば若札を与えてください」とおみくじをひくと、願い通り「若の15番」に当たり、勇んで舞坂へ出掛けたと伝わっている。

 安政2年卯の年(1855年)翁は、人脈を頼って、吉田藩士田中敏次郎に頼み、「海で海苔を育てる事業をしたいと、吉田藩主の了解を求めた。

 翌、安政3年6月16日には、翁は、いよいよ自身が願主となり(この当時、銀右衛門と称した)前芝村役人に海苔場開発を願い出た。

 この時の前芝村役人は 庄屋平三郎、吉蔵、組頭十蔵、佐兵衛、惣代太郎助、太郎左衛門であったが、これら村役人は早速、村内23組の組頭へ翁の願出の趣旨を話した。

 更に、組頭より小前一同へ相談したところ、村民一同異議なしと決まり、この旨、6月28日に翁に村役人より申し渡しがあった。

 安政4年巳年、翁は村内より新たに長兵衛、清蔵という二人の熱心な同士を得て共々村民を勧誘し21名の海苔仲間をつくる事ができた。

 21名の海苔仲間の氏名は次の如くである。

   銀右衛門  長兵衛  清蔵  五左衛門  太平治  平蔵  十兵衛  半作  権六

   八郎左衛門   称四郎  市蔵  新六  文蔵  長三郎  重五郎  平右衛門

   長蔵  万吉  仙之助  浅吉

翁は、この21名と共に、再び村役人に願い出て許可を得て、8月に椎の木50束を挿した。

 しかし、不幸にも暴風のためモヤの60~70パーセントが流失してしまった。

12月1日から海苔を採取し、生海苔六貫目を得た。

 それを乾かし、同月6日乾海苔150枚を領主吉田侯 松平伊豆守信古に献上した。

これが、三河海苔採取製造の始めである。

  

4.拡 張 

 最初は、翁の事を「海苔気違い」とからかっていた村民も、着々と目前に実績の挙がるのをみて態度が変わってきた。

 安政5年7月(1858年)には、前芝村地先海岸である西浜の海方運上を足利時代末期より連綿と代々の領主に上納してきた関係村落

 ・前芝村・梅藪村・日色野村・伊奈村・平井村5ケ村の庄屋・組頭が集会を持ち、海苔養殖の拡張について

  話し合った。その結果、拡張しょうということになり、8月吉田藩に次のような願書を5ケ村連印で差し

  出した。

 

     乍恐奉願上候御事

     1.近年前芝村、梅藪村海辺に海苔付候に付、蛤運上差上候村々相談の上農業

       余稼に右両村地先へ当年より木枝を挿し誠に海苔採稼支度奉存候、右場所の

      儀に付相障の儀一切御座無候、何卒御上様御慈悲を以て願の通 被為仰付

       下置候はば村々一同難有仕合に奉存候

                            以上

                                 安政6年牛8月

 

         梅藪村  長百姓  清三郎            前芝村  長百姓  喜平

              組 頭  六郎左衛門              太郎助

              庄 屋  治平衛                 組 頭  久四郎 

        青木新田  長百姓  平之助                十蔵

              庄 屋  平兵衛                 庄 屋  佐兵衛

         伊奈村  長百姓  七郎左衛門                                吉蔵

              組 頭  甚右衛門     日色野村 長百姓   弥左衛門  

              庄 屋  三太郎                                     組 頭  又右衛門

         同所古領 長百姓  源太郎               庄 屋  七郎左衛門

                       組 頭  惣七                            平井村     長百姓  五郎左衛門

               庄 屋  榮七                             組 頭  小六

                                                                                                                    重弥

                                                                                   庄 屋  金六

 

三浦 深右衛門様

杉本    助様

内藤 半助様

                              

 願書が、聞き届けられると翁は、直ちに五ケ村から有志を募ったが伊奈村、日色野村、平井村の三ケ村からはまだ一人も参加しなかった。

 前芝から最も多く参加し、梅藪村からも少々加わり121名の仲間を得た。

この時、翁は海苔仲間勧誘のため梅藪村だけでさえ、20数回も足を運んだということである。

 翁は、海苔仲間一同から「百文につき五文ずつ口銭をとり海苔寄せ問屋を営む事」の承諾を得ていた。

 又、自己所有の水田2反3畆歩を庄屋吉蔵に質入し、金子八両を借受け121名のうち、モヤ代金の融通のつかない者32名に対して一分ずつ貸与した。

 この年は海苔が不作で32名の大部分の人が2ケ年かかって、この一分の金を返済し終えたといわれる。

質入した水田2反3畆歩を思い切って売却し、海苔業に投じたのもこの時分のことらしい。

    ※1尺 = 1/3メートルなので、1畝は 2000/3 m2(約6.67アール) にあたる。15畝が

    1ヘクタールになる。畝(せ)は単純に歩(坪)の倍量単位となっており、30歩の

       ことを指す。10畝を1反(段)とする。 現在の市制においては、1尺 = 30センチ

        1メートルの三分の一なので、1畝は 2000/3㎡(約6.67アール) にあたる。

        15畝が1ヘクタールになる。

 海苔創業当時には、何分全然新奇な事業なので、道具類も不揃いで海苔洗いの丸籠も吉田城下に一つもなく遠く信州飯田から取り寄せ元値で海苔仲間へ分譲したり、これらの斡旋を翁が率先しておこなった。

 安政6年末、下佐脇村の人・川口又蔵に海苔の養殖・製造方法を伝授している。

宝飯群御馬村の川野金平・波多野五左衛文・加藤庄之助氏等が御馬で海苔を創始したのもやっぱりこの当時の事である。

 万延元年には、日色野村、平井村、伊奈村からも海苔仲間に加わる人が増加したので5ケ村相談の上、モヤ場所配当方法を定めた。

 万延元年 申年から元治元年 子年まで 五ケ年間 毎年 領主 松平伊豆守並びに係役人に海苔2百枚ずつ献上した記録がある。

 おそらく他の年にも献上していたものと推測される。

 

5.紛 擾 (ふんじょう※ゴタゴタ・もめ事・トラブル)

  翁の海苔創業当初には、堤防の上で赤ん坊をみながら海苔をとったというから、前芝村海岸堤防のすぐ近くにモヤを挿していたらしい。

 十余年を経た元治元年には、堤防より二~三百間沖合 *360m~550m沖合* にモヤを挿すようになった。

          ※1間「イッケン」;柱と柱の距離で 1間 = 1.81818182 メートル

      (昭和12年当時、西浜のモヤ場所は堤防から六百間沖合にある。)※1キロ沖

      (元治元年は、明治元年より4年前である。)貨幣経済が農村部へ浸透してきたため、農民

      間にも貨幣(現金収入)に対する渇望が増大してきた。米や野菜の収入に比べ、比較的多くの

      現金収入が得られる海苔養殖の仲間の増えていったのは必然的である。

 

 しかし、この時期、芽生えたばかりの海苔業にピンチが襲った。

2つの大きな紛擾(ゴタゴタ)が相次いで発生したが、翁を始め一同の必死の努力により円満に解決をすることができた。

 この2大紛擾とは、

  ①海苔業者と白魚網漁業者の争いであり、

  ②五ケ村内部における海苔場の権利争いである。

 

 ◎海苔業者と白魚網漁業者の争い◎

 元治元年(1864年)村内の白魚漁師仲間14名が翁の家を尋ね、海苔モヤの枝が折れて、白魚網に流れ込むからとモヤの撤去を求めてきた。

 前芝村の白魚仲間は、由緒正しい歴史をもち、遠く今川義元の家臣小原肥後守が吉田城代だった永禄元年(1558年)のころから網運上(漁業権としての上納金)を納めた。

 だから、代々の吉田藩主とは特別な関係だったため、手厚く保護され、海上においては他の者に優越させる地位を得ていた。

 そこで、翁の心配はひとかたではなく、当時の海苔惣代重五郎・彦七・傳助等と相談の上、他の有力者より金子(キンス)二十八両を借受け、村役人立会いの上、モヤ場の傍に松杭を打ち、竹で長さ百五十間の垣根を作って対応した。

 しばらくの間は、このトラブルは解決となったものの、間もなく再び白魚仲間から苦情の申込があった。

翁は、やむをえず村役人の許へ調停を願いでて庄屋佐平衛・吉蔵の裁断により白魚漁師が譲歩し、漸くこの件は解決した。

  次に、海苔場の権利争いについてのべる。

慶応元年(1865年)は、海苔が稀にみる豊作で収益も莫大であった。

 次いで、慶応2年には、米一表の相場が一両であったが、前芝村の海苔仲間65戸の収穫高が百五十両に達した。

 既に、海苔創業以来13年を経過し経験によりモヤ場所の良否も次第に明瞭となり且つ海苔の収益も以上の如く拡大したので、ここに問題が発生したのである。

 慶応2年7月に海苔モヤ建場の場割りに当たり前芝村と梅藪村は良い場所を選び取り、伊奈村・平井村・日色野村の三ケ村に悪い場所を与えたので三ケ村は、大いに激怒し、海苔場の再割替を請求したが前芝村・梅藪村は頑固にこれを拒んだ。

 そこで三ケ村の代表者は、集合協議し、日色野村から惣代八名(繁右衛門、市蔵、権七、八右衛門、喜十、弥左衛門、七右衛門、又左衛門)

 平井村からも惣代八名(仙蔵、庄七  作兵衛、源六、忠三郎、三治郎、与五郎、清十)

伊奈村、新古領から惣代十六名(十左衛門、清次、権六、豊吉、十蔵、庄平、藤兵衛、平六、善九郎、与右衛門、七五郎源右衛門、与治兵衛、判右衛門、九兵衛、太平)を選び前芝村の庄屋、隣村の取締庄屋及び吉田藩の係役人等に順次願出たが、前芝村と特殊な関係を有する係役人、取締庄屋等は海苔場は前芝村・梅藪村の地先水面であるとか、又、創業者は前芝の者であるとかいって、前芝側に有利な裁断をした。

 そこで、日色野村・伊奈村・平井村の三ケ村は、目的を貫徹するためには益々団結を固くする必要を感じ、慶応2年8月18日密かに三ケ村の惣代が集合して次のような連判状に調印した。

 

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                                                      定

 

1 此度海苔場一條之儀に付三ケ村に而連判仕取蔵置以上者

  向後如何様之六ケ敷儀に相成候共斯連判を相背者有之候

  はば其村方において諸費用等は出し可申候為後日依而連

                             判如件

                             慶応2年寅8月18日

  伊奈村惣代新古領にて十六名

   十左衛門、清次、権六、豊吉、十蔵、庄平、藤兵衛、平六、善九郎、与右衛門、七五郎、

   源右衛門、与治兵衛、判右衛門、九兵衛、太平

 

  平井村惣代      八名

   仙蔵、庄七、作兵衛、源六、忠三郎、三治郎、与五郎、清十、

 

  日色野村惣代     八名

   弥左衛門、七右衛門、又左衛門、繁右衛門、市蔵、権七、八右衛門、喜十

 

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 連判状の調印後三ケ村は円満なる手段に依っては、到底問題の解決は不可能であると、考え、ついに、吉田城に嘆願する事に決定した。

 慶応2年8月26日早朝、平井村では、東林寺の釣鐘を打鳴らし、日色野村では、法螺貝を吹き立て、伊奈村では八幡宮の鐘を鳴らした。

 三ケ村の男子は残らず蓑笠に身を固め五ツ時(午前八時)までに伊奈村東漸寺東字舞々辻に勢ぞろいし、平井村を通り横須賀村(現在の豊橋市横須賀町)の観喜寺に到着した。

 この騒ぎを聞きつけた隣村の庄屋連中が追い掛けてきて取り鎮めようとしたが、三ケ村の者はそれを押し退けて豊川堤防を東に進み、ついに下地町四ッ家の庚申塚まで進んだ。

 ここには、取締庄屋・下五井村の鈴木喜左衛門等も駆けつけ一同を説得しようとしたが、群衆は口々に前芝に親戚がある喜左衛門の平素からの「えこひいき」を罵倒し、蜂の巣をつつくようになり、手のつけようが無かった。

 かれこれしているうちに、代官が下地町まで出張し、又この時は、吉田大橋が流れ落ち、渡船で通行していた時であったので、群衆は、対岸へ渡ることが出来ず、やむをえず、一同は隣村の役人に後を任せて一先ず観喜寺までひきあげ、夜にはいって村へ引き揚げた。

 この騒動は、蓑笠騒動として今なお口碑に残っている。

みのかさ騒動 この騒動が起こると、翁を始め前芝の海苔仲間は、万一、三ケ村の者が徒党の罪により 厳罰に処せられることがあると、喧嘩両成敗により前芝の海苔採りも禁止させられるかもしれないと、心痛、ひとかたならず揉み消し運動に着手した。

 しかも、この時期は既に徳川幕府の勢威も昔日の面影を失いつつあり、尊王討幕の声がちまたにきかれるようになった。

 しかも、将軍家の死を幕府は一カ月も伏せ、8月20日漸く喪を発表するにいたった。

同時に万事穏便の御沙汰を全国に下され、従って三ケ村の罪も、穏便明け後に断罪さられる事にきまった。

 翁を始め前芝の有力者は、この穏便の明ける前に事件を内密に済ましたいと東奔西走し、苦心惨憺していた。

その年の冬から3年にかけ吉田宿助郷騒動が勃発しここ東海道の一隅においても、封建社会の解体弛緩を思わせる事変が勃発していた。

 くしくも、徳川幕府も、もろくも倒壊し、明治維新政府が中央に樹立された。

明治維新政府は、恩威を行う方針をとり、吉田藩は、明治元年三ケ村の村役人を呼びだして、今後このようなことのないように戒めさしもの強訴事件も事済となった。

 一方、海苔場割方法は、吉田藩の国益係・杉本百助、長尾作兵衛並びに尾張有松の人・竹田可三郎の三人が五ケ村の家数及び五ケ村の納める西浜の蛤運上の割合を基礎として裁定し、絵図面を添えて明治2年、五ケ村庄屋に下附し、しばらく事件は大団円に達した。

 この紛擾は、慶応2年以後3ケ年間も続き、この間、前芝村対三ケ村の感情は極度に蔬隔し、三ケ村は前芝で買物をせず、預けていた田畑は小作から引き揚げた。

 杢野翁は、この紛擾解決のために忙殺され、明治元年・2年の両年は、海苔業を休業した。

この紛擾解決のために海苔仲間の費やした運動費は、百四十両に達したが、翁は、率先して海苔惣代彦七・重五郎・傳兵衛と力をあわせこの金の償還計画を立てた。 

 

6.明治以後 

 雨降って地固まるのたとえの如く、この紛擾後は、五ケ村の関係は円満となり、明治6年には、白魚業者とも新協約を締結した。

 明治維新後、我国資本主義の躍進発展に伴い、海苔の需要も年毎に増加してきた。

需要の増加とともに、海苔養殖も、前芝を中心にして、愛知・三重両県の各所に新しく海苔養殖場が拡張されていった。渥美郡には、芳賀保治氏が出て海苔業の改良に貢献した。

 いま、豊川河口に於ける海苔産額を見るに明治10年頃には、従業者約四百人・産額五・六千円に過ぎなかったが、20年後には、従業者約五百人・産額一万円に達し、36年には、従業者約千人・産額七万円を越えた。

 この間、翁は、職業を十数回かえていたが、海苔の事は終始念頭より離れなかったという。

海苔業の発展に伴い、翁の功績ば漸く認められ、明治27年5月には、愛知県知事 時任爲基より表彰された。

 さらに、明治29年8月には、満場一致で会長・古橋源六郎の名をもって感謝状を翁に贈った。

地元では、明治26年、翁の功績を永遠に記念するため、前芝、日色野、梅藪、平井、伊奈、下佐脇等の海苔関係町村が出金し、記念碑を前芝海岸に建設する事を決定し、明治31年除幕式を挙行した。

 現在、前芝海岸に聳え立つ海苔創業者・杢野甚七碑と刻んだ記念碑は大正12年に明治31年除幕した記念碑を修復拡張したものである。

 翁は、多年精力と財産を海苔業に傾注し、晩年は、生活も不如意となり加うるに、家庭的にも頗る恵まれない状態にあったので、明治33年11月には、海苔関係町村より養老金を募り多年の功労にささやかなりとも酬いたのである。

 翁は、長躯・痩身・頑健なる健康の持ち主であり、八十余歳に及んでも、眼鏡無しで新聞を読み得たほどであるから、91歳という希有の長命を保ち、明治37年8月3日眠るが如く大往生を遂げた。 

 

7.結 び

  翁の死後、明治39年には前芝村附近の海苔生産者と販売業者が集まり、三河乾燥海苔改良組合を組織し、明治45年5月には、三河乾海苔同業組合が結成され、昭和8年度からは、海苔県営検査が実施される事になった。

 現在、三河乾海苔同業組合の加入区域は、宝飯、渥美、豊橋の一市二郡の沿岸各町村を包含し、組合員数約三千人、産額は年七十万円を突破している。

 東三河における海苔の名称は、最初は、前芝海苔と称していたが、後に三河海苔と称するようになり、今や愛知海苔の名の下に統一されんとしている。

 農村・漁村の冬季閑散期の副業として最も有利である海苔業が今後益々発展するにともなって、翁の功績はいよいよ永久に光輝を放つであろう。

 最後に、幕末変動期に際会し、騒乱に超越し新興産業育成に献身的情熱を傾倒した翁並びに、翁と事を共にした幾多無名の人々に深き尊敬と感謝を捧げて本稿を終わる。

 

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以上が、杢野甚七翁伝を、わかりやすく 再生してみました。

 

                      小林孝壽  2019.10.14記載