六条潟の新田開拓の歴史

 ・毛利新田のホームページに詳しい説明があります

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 毛利新田(神野新田)ができる前の青竹新田からの鳥観図

 ・毛利新田ができる前の、現豊橋駅の上空から神野新田方向を見た絵で、手前の緑が青竹新田、右が豊川

 ・茶色が左から東富士見、中富士見、西富士見に3つに区分けされた新田(完成したが後に波浪で破損し、

  その後、東明治新田、西明治新田、福久縞新田と名称を変えて復旧される

 ・毛利新田は富士見新田の正面奥から左奥にかけて造られることになる(干潮時は洲が見えたはず)

 ・正面の方角は南西で「渥美半島の先端」、その右が知多半島先端、右斜めが「名古屋」の方向である

 ・明治20年代に人力だけで工事をするのは、想像を絶します