(1)
海苔の産地としての愛知県は、浅草海苔の名において名声を博している東京湾北岸の東京都、千葉県に次ぐ産額を挙げているが、その主産地は、豊川河口を中心とする渥美湾奥の浅海、矢作川口付近の知多湾岸、木曽川天白川口の伊勢湾頭地域に三大別することができる。
渥美湾岸の浅海を利用して海苔の養殖を行なった先覚者は、田原藩の家老渡邊崋山で、先進地江戸大森にて養殖製造等について調査したが実施には至らなかった。
三河湾・伊勢湾で海苔の養殖を初めて行ったのは前芝の人、杢野甚七である。
(2)
杢野甚七は銀右衛門といい、文化12年(1815)11月15日、宝飯郡前芝村の農家に生まれた。
家はあまり裕福でなかったので、毎日田畑に出て農耕をに精を出し、もっぱら農閑期には海に出て漁をし、あるいは貝類の採取をして生計を立てていた。
幼少の頃から読書好きで、大変温和に人であったが、良いところは、自主独立の心の強い人で、いったん自分の志したことは貫徹しなければすまない勝気の持ち主であり、少しも他に依頼するところが無かった。
前芝村は豊川口に位置し、渥美湾岸の重要な港として、かつまた吉田(今の豊橋)の門戸として、船の停泊多く、旅人、商人等の往来も多かった。
たまたま甚七は江戸の浅草海苔が年々多額の生産をあげていることを聞き、創意的な彼は前芝村の海岸においても、この海苔を採取するようにしたいと思いつき、それ以来この地の海苔の適否について注意し、養殖について工夫を凝らすようになった。
(3)
嘉永6年(1853)、彼が40歳の時である。
秋頃より採取したハマグリを生かして置き、冬季にこれを売り出そうとして、海浜の一地域を選び、周囲を葦簀(ヨシズ)で囲んでその中で養って置いたところ、冬に至ってその葦簀や、付近に沈んでいた竹、籐蔓(トウノツル)等に立派な海苔が付着し、発育しているのを見出し、始めてこの地も海苔の養殖に適していることを知り、小躍りして喜んだとのことである。
翌安政元年(1854)8月には、用意した椎、樫等の枝を少しばかり試しに海浜に挿して置いてたところ、冬に至って見事に海苔の着生を見た。
これこそ、三河湾内における海苔の篊(シビ)建養殖の最初であり、また本県の海苔養殖の先駆けでもある。
次でその製造法を研究しようと志し、遠江国舞坂(浜名湖口東側)に出かけて行き、養殖、製法、販売等を教えてもらい、椎・樫等、篊粗朶(シビソダ)のの伐採時期やら、海苔簀にする葦の刈取り時期等の研究調査をして帰村した。
(4)
安政2年(1855)、甚七は領主吉田藩の諒解をもとめ、安政3年(1856)には自身が願い主となって村役人に、これまでの結果を申し出で、海苔場開発の許可を願い出た。
村役人は直ちに組頭へ、組頭は一同に相談したところ、異議なしと決まり、その旨甚七に対して申し渡された。
翌安政4年(1857)には熱心な同志を得て共々に村の人々に説き話し、数十人の同意者を得て、その8月には全ての準をして大収穫を計ったが、不幸にしてこの年は大暴風雨、大洪水のために粗朶の6、7割は流出し、わずかに数貫目(3.75kg/貫)の海苔を採取し得ただけであった。
しかし、その年の12月には一同と共に採取製造した乾燥海苔を領主松平伊豆守に献上した。
これが前芝のノリ養殖の始まりである。
このように甚七の海苔に対する努力は狂気じみた程であったので、村人は海苔狂いとからかっていたが、着々と実績をあげるのを見て、徐々に甚七に対する態度が改まってきた。
(5)
安政5年(1858)には、前芝、梅藪、日比野、伊奈、平井の5ケ村の庄屋組頭等が集合協議して海苔業の大拡張を計ることになり、同年8月、次のような願書を5ケ村連印にて吉田藩に差し出したのである。
乍 恐 奉 願 上 候 御 事
一、近年前芝村、梅藪村海辺に海苔附候に附蛤運上差上候村々相談の上、農業の余稼に右両村地先へ当年より
小枝を差し誠に海苔採稼仕度奉存候、右場所の議に付相障の義一切御座無候間何卒上様御慈悲を以て、願
の通被為仰付下置候はは村々一同難有仕合に奉存候 以上
安政5年
梅 藪 村 村 長 百 姓 清 三 郎
組頭 六 郎 左 衛 門
庄屋 治 兵 衛
前 芝 長 百 姓 喜 平
同断 太 郎 助
組頭 久 四 郎
同断 十 蔵
庄屋 左 兵 衛
同断 吉 蔵
青 木 新 田 長 百 姓 平 之 助
同断 平 兵 衛
伊 奈 村 長 百 姓 七 郎 左 衛 門
組頭 甚 右 衛 門
庄屋 三 太 郎]
同 所 古 領 長 百 姓 源 太 郎
組頭 惚 七
庄屋 栄 七
日 比 野 村 長 百 姓 弥 左 衛 門
組頭 又 右 衛 門
庄屋 七 郎 左 衛 門
平 井 村 長 百 姓 五 郎 左 衛 門
組頭 小 六
同断 重 弥
庄屋 金 六
三浦深右衛門様
杉 本 平 助 様
内 藤 半 助 様
この願書が聞届けられると直ちに5ケ村から同志を募った。
前芝村からは最も多く、梅藪村から少々加わり、120余名の参加者を得ることができた。
甚七はその時自己所有の田地を質入れして篊代金の都合のつかぬ者に融通してやったところ、その年は海苔不作のため大部分の者が2年かかってやっとその金をへんさいすることができたと言う。
そこで甚七は思い切って、質入れした田地を売却して海苔業へ当時でしまった。
これに刺激されてか、北隣の御馬海岸でも海苔養殖が始められ、佐脇村にも伝わり、万延元年(1860)には日比野、平井、伊奈からも参加するようになり、海苔業は次第に隆盛になっていったのである。
(6)
好事魔多しとか、ここに一大障害が発生した。
それは当地漁業者とのもめごとである。
元治元年(1864)の漁業者十数名は甚七の家を訪れ、粗朶の挿立および篊枝が折れて流れたのが漁網に流れ込む等のことが白魚漁に障碍あるという理由で大反対をした。
甚七は海苔総代と相談の上、篊場に松杭を打ち竹の垣根を造って粗朶の流失を防止することで、村役人の調停により事なきを得た。
次に起こったのは海苔場の権利争いである。
慶応2年(1866)7月、海苔養殖場の場割に際し、前芝、梅藪の2ケ村で良い場を取り、伊奈、日比野、平井の3ケ村に悪い場所を与えたということで、3ケ村はひどく怒り、場の再割替を要求したが、前芝、梅藪の両村は強く拒絶した。
そこで3ケ村の代表は吉田藩の係役人に願い出たが、前芝村に有利な裁断が下された。
ここにきて3ケ村は目的貫徹のため益々結束を固くし、連判状に調印してこれを携えて吉田城に勅願に出かけた。
この騒動が勃発すると、甚七を始め海苔仲間の者は将来を心配し、百方奔走して円満な解決をしようと努力したが、前芝村対3ケ村の感情は極度に疎隔してしまった。
甚七はこのもめごとの解決に忙殺され3ケ年ほど海苔業を休んだほどであった。
このもめごとの間に世は明治維新となり、海苔場の割当方法も裁定され、ようやく事件は解決した。
けれども3ケ年にわたるこのもめごとのため、海苔仲間の費やした費用も多額に達した。
甚七は率先してこの償還計画を立てた。
彼のこのような努力は遂に報いられ、5ケ村の関係は円満となり、また明治6年(1873)には白魚業者とも新協約を締結し、二大紛争も解決して、前途の障碍は除かれたのである。
(7)
以来、豊川河口における海苔養殖は逐年隆昌になり、明治10年(1877)には業者400人、産額5,6千円、明治20年(1887)頃には従業者500人、産額1万円、明治36年(1903)には従業者1.000人、産額7万円を超えるに至った。
このように海苔養殖が発展するに伴い、彼の功績は認められ、明治27年(1894)には時の愛知県知事より表彰され、また彼の恩恵を受けている前芝、日比野、梅藪、平井、伊奈、下佐脇等の関係者が協同して、彼の功績を永久に記念し、遺徳を偲ぶため、記念碑を前芝海岸に建設することとなり、明治31年(1898)に除幕式が行われた。
かれは、自らが発願した事業の成功を見届け将来性を見極め、村人の生活が安定する様子を喜びつつ、明治37年(1904)8月3日、92歳の高齢をもって穏やかな大往生を遂げたのである。
(8)
明治維新後、海苔の販路を拡大するに従い、三河湾岸、伊勢海沿岸に新たに海苔場が順次開発されたが、前芝村付近の人たちは、たびたびこれら新開発地に招かれて、海苔養殖ならびに製造方法を伝授した。
また、明治26年(1893)、三河湾に大津波が襲来し、前芝村の対岸、渥美郡牟呂新田の堤防が決壊した時、新田内の葦に海苔が付着しているのを、時の牟呂村長の芳賀保治が発見し、明治29年(1896)、有志と共に篊の試験建をしたところ好結果を得て、翌明治30年(1897)から村内一般に創業するようになった。
そうして、宝飯郡、渥美郡、豊橋市の沿岸適地が海苔養殖に所狭くなるまで利用されるようになり、当業者3,000余人、年産6,500万枚、金額70有余万円に達しているのである。
・タイトル 開校廿周年記念東三河産業功労者伝
・著者 豊橋市立商業学校
・出版年月日 昭和18年
・URL http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1705146/69
・出版年月日 杢野甚七(前芝)